金本位制
金本位制(きんほんいせい、英: gold standard)とは、狭義には、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度であり、広義には、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額を表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、これを法定金平価という[注釈 1]。
概要
[編集]
狭義の金本位制は、その国の貨幣制度の根幹を成す基準を金(gold)と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を金貨とし、これに自由鋳造[注釈 2]、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である[1]。これは特に金貨本位制という。つまり、金そのものを貨幣として実際に流通させることである。
実際には金本位制のありかたは、国や時代により様々な様態があり、一概には表現できない。例えば流通に足りる金貨が常備できない、高額になりがちな金貨は持ち運びが不便、使用により磨耗するなどの理由により、金貨を流通させられない場合が多い。そこで、中央銀行などが金地金との交換を保証された兌換紙幣(だかんしへい)および、本位金貨に対する補助貨幣を流通させることにより、貨幣価値を金に裏付けさせることが行われた。これを金地金本位制(きんじがねほんいせい)という。
一般には、金貨本位制と金地金本位制を含めて金本位制という。さらに、自国で金本位制を実施できない場合でも、これを行っている他国の通貨と自国通貨との一定の交換性が保証されている場合には、為替を通じて間接的に金との兌換が行われていると考えて金為替本位制(きんかわせほんいせい)と呼ぶ。広義では、この金為替本位制も金本位制に含める。しかし、金為替本位制は第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制を別として植民地政府で実施された例が多く、この場合本国の都合で現地の金融活動は多くの点で犠牲を強いられた。
金本位制の定義と分類
[編集]金本位制の定義については次の4条件が知られている(いわゆる「金本位制の4条件」[2])。
- 金の自由鋳造--本位金貨の原料である地金を、誰でも自由に貨幣に鋳造できる。
- 金の自由融解--金貨を自由に溶かして地金にすることができる。
- 自由兌換--銀行から発行されている銀行券と金貨との交換をいつでも無制限に保証する。
- 自由輸出入--金(地金であろうと金貨であろうと)の輸出入に一切の制限をおかない。
しかし浜田(1976)[3]が述べるように、この条件を満たしているものだけが金本位制ということではなく、経済学ではより実証的研究を通じて金属貨幣(Metallic Money)を媒介とする通貨制度について検討される。

[4]標示された図表は、貴金属貨幣制度の差異を大雑把に表示したものである[5]。吉田賢一(2000)によれば、世界のほとんどの国が最初に採用した金属貨幣制度は銀本位(銀本位制)であり、徐々に金も本位通貨として鋳造されるようになった。金と銀が本位となる場合、それらの交換比率は法律により確定され、これを金銀複本位制度という。銀の産出量が歴史的に増加して稀少性(価値)が低下すると金銀複本位制の維持が困難となり、イギリスが1816年に貨幣法を採択するに際し、世界に先駆けて金を「唯一の本位貨幣」として鋳造する(金本位制)[6]。なお1816年貨幣法により成立した「金本位の4条件」を満たす本位制度を金貨本位制度[7]とも呼ぶ。
この時代、他の欧州諸国、アメリカ、アジアは銀本位か、あるいは金銀複本位制度を採用しているものが多かった。ドイツは普仏戦争後に金本位となり、以降主要国に金本位制度の採用が進む。銀本位あるいは金本位のように、本位通貨をただ一つの種類の金属材料に指定する制度を単本位制度と呼び、金銀複本位のように2種類を指定するものを複本位制度(または両本位制度)と言う。フランスおよびラテン通貨同盟諸国は通貨政策に対して足並みがそろわず、金貨と銀貨の2つを本位通貨として無制限に強制通用力を認めるが(複本位制度的)、金貨については自由鋳造と自由溶解を認めつつ銀貨については自由鋳造を認めないものとした。これは「足並みがそろわない」という意味から跛行(はこう)本位制度[8]と呼ばれる。
各国の本位制度は第一次大戦にともなう貴金属の国外流失を阻止する目的で、相次いで停止され、それは戦後に復活することとなるが、戦後の本位制度は戦前とは異なり、貨幣として鋳造する必要のない制度が採用されることになる。イギリスを例とすればわざわざ金貨を鋳造して流通させるのではなく、国内では主に銀行券(banknote)を流通させ、一方で金地金(金塊)を兌換の対象とし、実質的には国際収支の帳尻を決済する手段として金地金を利用するというものである。これを金地金(金塊)本位制度[9]という。
もう一つは1922年のジェノア会議を通じて、アメリカとイギリス以外の主要各国で採用された方法で、兌換準備として金のほか、金為替すなわち預金・手形・短期証券などの外国通貨建て資産も国際収支の決済手段として認めるという方法である。これは金為替本位制度[10]という[11]。
金地金本位制度、金為替本位制度いずれも金を通貨として市中に流通させない政策を取り、法貨としての強制決済機能を否定することから金核(きんかく)本位制度と呼ぶ[12]。
均衡のプロセス
[編集]金本位制には、国際収支を均衡させる効果があると考えられている。複数の国が存在していて、それらの国が金本位制を採用している場合、流通している通貨が異なっても事実上「金」が世界共通の通貨であることになる。
例えば、経常収支の均衡しているある国がある。
- 設備投資が活発になり好況になったとする。
- 国内の貯蓄がそれまでと変わらなかった場合、経常収支は赤字となる。
- 経常収支の赤字は輸入による自国通貨(金)の流出が、輸出による自国通貨(金)の流入を上回ることである。
- このことは国内の通貨残高減少を意味する。
- 通貨減少により国内の金利は上昇し設備投資が減少する。
- 景気は経常収支が均衡するまで沈静化し、やがてバランスをとる。
このプロセスにおいて、金利上昇時に国外からの資本流入が起きると、設備投資は減少せず、経常収支も均衡しない。経常収支と資本収支の合算が均衡している限り国内の金は増減せず国際収支は均衡する。
逆のプロセスとして不景気に陥った際も金の流入がプラスになれば景気が回復する。
一方、輸出入だけに着目した説明もある。こちらは初学者でも分かりやすい。
例えば、国内の物価が上がれば輸出減・輸入増となる。輸入超過分は最終的に自国の正貨で支払う。正貨が減ると通貨の発行額も減り、不況となって物価が下がる。この下落によって輸出増・輸入減となる。こうして正貨は回収される。
不況レジームとしての国際金本位制(金の足かせ)
[編集]金本位制というのは、固定相場制の一種としてとらえることができる。各国がいったん自国通貨と金との交換比率を決定すると金平価も自動的に決定され、各国通貨当局は金平価を維持させるために、国内の金融政策が追随する形をとる。
金本位制はほかのドルペッグ制などとは違った固定相場制としての特質を持っている。それは金流出国と金流入国との間の金融政策の非対称性である。例えば、自国において金流出が起こったとする。その国では民間の兌換請求によって金を買い戻していることになるから、必然的に自国通貨のマネーサプライの減少をもたらし、均衡に至る。しかし、金流入国においては金流入によって民間より金を買い入れて、マネーサプライの拡大をすることになるが、当該国がマネーサプライの拡大を嫌った場合、他の資産を民間に売却することによって自国通貨供給の拡大を阻止するという操作が可能であり、このような金不胎化政策はかならず他の国に金融引き締めを強いることになるため、金本位制というのは本質的に強い引き締め圧力を持ち、拘束性を持つ政策レジームである。
ジョン・メイナード・ケインズは1923年の著書『貨幣改革論』で金本位制を「未開社会の遺物」と喝破し、金の足かせから自由な管理通貨制度への移行を説いていた[13]。
歴史
[編集]概略
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金本位制の理念は古くからあった(東ローマ帝国の経済、後に$マークの由来にもなったソリドゥス金貨)と思われるが、金貨は貨幣として実際に流通させるには希少価値が高過ぎ、金貨を鋳造するための地金が絶対的に不足していたため、蓄財用として退蔵されるか、せいぜい高額決済に用いられるかであった。
歴史的には、金本位制よりも銀本位制や金銀複本位制の方が一般的であった[14][15]。 金本位制に基づく国際通貨制度への移行は、事故、ネットワーク外部性、経路依存性を反映している[14]。中世ルネサンス期に各所で鋳造された通貨は金・銀・銅を含むものであり、この時代は紙幣を本格的に流通させるための技術的下地が存在しなかったため、商取引や交易は現物貨幣を使用するか、信用取引(帳合取引)であった。
ロシアでは金鉱が豊富であった[16]背景から通貨としての金の採用が早く(ただしロシア帝国としての金本位の採用は1897年、セルゲイ・ウィッテによる)、法形式では事実上の金本位が採用されたイギリスの1816年貨幣法が早い。金本位制のグローバル化は大不況期に進むが、それはそのときに工業が発展したからである。特筆すべき例は次のようなものである。アルミニウムの精製に必要だったナトリウムが、ホール・エルー法により無用のものとなった。カストナー・アルミニウム株式会社は、そこでシアン化ナトリウムを製造した。この会社は自社製造で飽き足らずに、ドイツ金銀分離工業所デグサへもナトリウムを供給した。このようなシアン化ナトリウムは、金鉱石をシアン化法で処理するのに使われた[17]。
イギリスでは1717年、当時の王立造幣局長であったアイザック・ニュートン卿が銀の金に対する法定交換レートを低く設定しすぎたため、銀貨が流通しなくなり、これが事実上の金本位制の採用となった[18][注釈 3]。金本位制が法的に初めて実施されたのは、1816年、イギリスの貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)でソブリン金貨(発行は1817年)と呼ばれる金貨に自由鋳造、自由融解を認め、唯一の無制限法貨としてこれを1ポンドとして流通させることになってからである。
19世紀にイギリスが世界有数の金融・商業大国になるとヨーロッパ各国が次々と追随し、19世紀末には、金本位制は国際的に確立した[18]。さらに、19世期後半の大不況期に採用が進み、1870年代から1920年代前半、1920年代後半から1932年まで[19][20]、また1944年から1971年の米ドルの金兌換停止し、ブレトンウッズ体制を事実上終了させるまでは国際決済銀行とブレトン・ウッズ体制による国際通貨制度の基礎となった[21]。 1971年以降は以降、先進国のほとんどは管理通貨制度に移行したが、それでも多くの国が多額の金準備を保有している[22][23]。
近代日本の金本位制
[編集]日本では1871年(明治4年)に「新貨条例」を定めて、新貨幣単位円とともに確立されたが、金準備が充分でなかった上に、まだ経済基盤が弱かった日本からは正貨である金貨の流出が続いた。1871年に法律を改めて暫時金銀複本位制としたが、実質的には銀本位制となった。日清戦争後に清から得た賠償金3800万英ポンドの金[注釈 4]を準備金として1897年には平価を半分に切り下げた貨幣法が施行され、実質的に金本位制に復帰した[24]。
国際金融資本と金本位制
[編集]19世紀を通じた産業革命の進展とともに、国際金融市場に占める金融資本家の重要性が向上した。すなわちロスチャイルド、ベアリング、クレディリヨネ[25]、ソシエテ・ジェネラル、ドイツ銀行、J.P.モルガン、クーンローブ、リーマン・ブラザーズなどである。のち横浜正金銀行や香港上海銀行などアジアに軸足を置いた国際金融資本も登場する。彼らは基本的に民間の商人であり、金融決済サービスを提供する目的で多額の金塊を預託・備蓄しており、各国の中央政府は彼らを主な引き受け手として公債を発行する関係であった。この点で財政政策と金融政策の一体化は保証されておらず、また各国の中央銀行が自ら現有する金塊を担保とする通貨(紙幣など)は必ずしも十分な兌換的基礎を備えているとは限らないものであった。1900年時点でイギリス中央銀行(イングランド銀行)が備蓄していた金塊の重量は198.47トンであったが[26]これらの金塊の主な預託主は上記の国際金融資本たちであり、さらに彼らが世界各地に保有していた金塊の総量が公的に判明するのは国際連盟が発足して1926年から統計年鑑を発行することになって以降のことである。ほぼ全ての金融資本は現代のように財務情報など公開しておらず、手の中のカードは不明であり、また国際決済サービスを提供しない各地の金融機関との取引状況も不明であった(情報公開の義務化については米国の場合1933年の証券法以降)。現代の視点から19世紀~20世紀初頭の金本位制・金融政策を論じるさいに、しばしばこの視点は軽視されがちである。政府には兌換停止と通貨切り下げという2つの実質的なデフォルト手段があり、このため国際金融資本側も政府に対する低利での公債の引き受けには応じられなかった。第一次世界大戦中にイギリスが発行した戦時国債は5%の付利が要求され[27]、この返済は1920年代のイギリス大蔵省の重大な課題であった。財政均衡主義と自国通貨の威信保持に懸命であったのは主要国の財務当局の基本的な姿勢であり、1929年から始まる世界恐慌において大きな足かせとして機能することとなった。
中央銀行制度と自由銀行制度
[編集][28]中央銀行は歴史的には王室の金融資産と国債を管理する目的で設立された経緯があるが、イングランドでは1708年銀行法により[29]通貨の発行権は事実上イングランド銀行が独占していた。しかしスコットランドやアイルランド、カナダ、アメリカなどではそれぞれの地域の有力な銀行が独自の発券業務を行っていた(自由銀行)。しかしまったく無軌道に発券業務が行われていたわけではなく、例えばニューヨークは1838年に自由銀行法を制定し、銀行券の発行には112.5%(100%分は国債で、12.5%分は正貨で)を州監督官に預託することが義務付けられている。スコットランドの場合はさらに画期的であり、国家への貸付は禁止されており、為替手形が満期になる前に銀行に持ち込むと、銀行は前貸しという形で銀行券を供給する、あるいは借入希望者の申し込みに際して、貸付という形で銀行券を発行するものであった[30][31]。
ドイツは1871年のドイツ帝国の成立以前は、さまざまな硬貨、紙幣、銀行券、外国貨幣が流通しており、1871年[32]、1873年[33]、1875年[34]の諸立法によりライヒスバンクが商業銀行として設立された[35]。1875年銀行法で既存の発券銀行の銀行券の流通範囲に制限を課し、1914年法[36]で帝国紙幣とライヒスバンク券の金兌換義務は停止され、1924年貨幣法、1924年銀行法によりライヒスバンク券が帝国金貨を除き「唯一の無制約の法定支払手段」と定められた。
輸出入の規制と金塊の集中
[編集]政府の銀行として出発した中央銀行は、政府の要求に従って民間の諸銀行の有する準備金を国家に集中させることを志向し始めるが、この過程は歴史的には緩慢なものであった[37]。
金属貨幣が交換の媒体として信用されている限り、これが海外に輸出超過となる場合、国内経済は深刻な通貨不足となり、これはデフレ要因であり、交換経済を停滞させる要素となる。金属本位制度を法的に採用している限り、国内に流通している金属の総量に通貨発行量は深刻な影響を受けると考えられた(貨幣数量説)。国際外交が友好的で信義に基づいているかぎり金為替本位制度は円滑に機能するであろう。しかし敵対的となればそれがどうなるかは分からない。また国際金融資本が、自身の管理する金塊を一国から他国に大量に移送した場合、当該国通貨の国際的威信は大きく影響を受けるかも知れない。
政府・国家は経済学の外にあり、資本の論理の外にある。仮に資本の論理にまかせておいても、いずれは準備金はゆっくり集約されるであろうが(意思を持った)国家は経済主体としての銀行を必要としており、経済的特権を付与することで特定の銀行を国家の銀行にしたてて行く。「銀行の銀行」すなわち唯一の発券銀行を国家の要請として造り上げて行くことになる[38]。
イングランドでは1299年のステップニー法[39]より銀貨・銀器・銀塊の輸出を禁じ、域外で鋳造された粗悪な偽貨の輸入を禁じており[40]、これは1663年の通商奨励法[41]で解禁されるまで有効な法令であった[42]。第一次世界大戦の勃発に際して主要国では金本位は停止され、イギリスの場合(明確な措置により金塊の輸出入が禁止されたわけではなかったが)「兌換や金本位制は神話である」と言われた程度には、金の輸出は、なんらかの障害や政府の干渉によって妨げられたという[43][44][45]。日本では江戸時代に新井白石による「海舶互市新例」により貴金属の国外持ち出しを規制したことが知られている。第一次大戦中の1917年9月には金の日本国外への輸出を許可制とし実質的に貿易禁止措置を採用した。また1931年12月にふたたび禁輸措置を採用している。
国内の金や銀の保有者に対して中央銀行に売却(銀行券との交換)を強制する命令[46]が発出されることがあった。
第一次世界大戦による金本位制の中断
[編集]1914年にはじまった第一次世界大戦により、各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行した。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により、世界最大の為替決済市場であったロンドンのシティが戦災に遭い活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。例えば日本は、1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあり、外貨決済の8〜9割を同地で行っていたが、大戦勃発後の1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。
第一次大戦後の金本位制への復帰と大恐慌による離脱
[編集]その後1919年にアメリカ合衆国が金本位制に復帰したのを皮切りに、各国も次々と復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなり、インヴァーゴードン反乱の発生により英国政府の財政能力に懸念を抱いた海外投資家が一斉にポンドの金塊への兌換を求め、英国政府は再びポンド兌換を停止せざるを得ない事態となった。この1931年9月のイギリスを契機として1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。このことについてアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長を経験したベン・バーナンキは、本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスが良かったことを示した[47][48]。
日本では、一次大戦後に金本位制復帰の機会をうかがうも、関東大震災などの影響で時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金輸出解禁」を実施したが、多額の貿易赤字に伴い多量の金流出が起り、翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止した[49]。
1933年、金融恐慌を期にルーズベルト大統領は大統領命令6102号を発令し、アメリカ市民に対し保有する金を平価(1オンス=20.67ドル)で強制的に搬出させ、市民の金保有を禁じた。これは、当時金本位制の下で紙幣が金保有高に制限されてしまうため、インフレ政策が取れなかったための措置であった[50]。1934年に、アメリカは金の買上げ価格を1オンス=35ドルと定め、この価格で外国通貨当局に対し金を引き渡す措置をとるようになった[51]。
ブレトン・ウッズ体制の創設
[編集]第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心としたIMFによる体制、所謂「ブレトン・ウッズ体制」が創設された。他国経済が戦災で疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていたので、各国は1オンス=35ドルの平価で金と結びつけられた米ドルとの固定為替相場制を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。
ニクソンショック
[編集]しかし、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降は、金と米ドルの兌換が停止される。同年12月にスミソニアン協定で1オンス=38ドルとドルの平価を切り下げつつも、金本位制の性格を維持しようとしていたが、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行する形で、先進国の通貨は金本位制が有名無実化する形で離脱することになった。同年に1オンス=42ドル22セントと再び平価を切り下げとなり、1976年1月にキングストンで開催されたIMF暫定委員会では、変動相場制と米ドルの金本位制廃止が確認され、1978年4月に協定発効に伴って先進国の通貨における金本位制は完全に終焉した[51]。
日本の本位金貨(旧1、2、5、10、20円、新5、10、20円)も、太平洋戦争後は形式化していたが、依然として現行貨幣であった。1987年(昭和62年)制定、1988年(昭和63年)4月1日施行の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」により、同年3月31日限りで漸く通用停止になり、名実ともに管理通貨制度へ移行した[52]。
参考文献
[編集]- 上川孝夫, 「国際金本位制に関する覚書」 横浜国立大学経済学部紀要論文 『エコノミア』 57巻 1号, pp.75-93, 2006年5月[注釈 5]
- 判澤純太, 「日華事変をめぐる日本金融の「広義国防化」変換過程と、「華北『分治』工作」の「高度国防」化」 『新潟工科大学研究紀要』 9号 p.83-106, 2004年12月, NAID 110001190224, hdl:10623/20251, NCID AN10590360[注釈 6]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 日本では1871年、新貨条例が定められ、この時金平価は1円=純金1.5グラムとされたが、その後1897年の貨幣法施行で金平価は半減され、1円=純金750ミリグラムとなった。
- ↑ 個人あるいは政府が造幣局に金地金を搬入し、その量に応じて金貨の交付を受ける制度。すなわち手持ちの地金を本位貨幣に鋳造することを政府に請求できる制度。鋳造における手数料の徴収方法は主に二通りあり、イギリスは鋳造手数料そのものは無料であったが地金の運搬コストや鋳造に要する時間分の利子として、公定価格より地金価格は下回った。フランスは最初から手数料が徴収された。岩田佳久「19世紀複貨幣制の理論と金銀蛇による実証分析」(東京経済大学会誌、2014)、脚注19、23
- ↑ これはイングランドにおける銀貨の流通問題が背景にある。イギリスでは1299年のステップニー法により銀の輸出入が厳しく規制され犯罪化され、これが1663年に解禁され1666年には銀貨の自由溶解・鋳造が承認されていたが、少額決済に利用される銀貨はその表示する価値より重量価値があきらかに上回っており、銀塊に融解され退蔵されるか海外に持ち出されていた。イギリスは名誉革命の混乱の後、フランスを舞台とした大同盟戦争に突入しており、大陸で兵士に給付するための大量の銀貨を必要としていた。またアメリカ大陸の植民地をめぐっての戦争(ウィリアム王戦争)も発生しており、両戦争遂行のための資金調達を目的に初の王立銀行(イングランド銀行)を設立した。銀貨改鋳の議論はこの流れのなかで登場した議案であり、この当時、流通する少額決済用の銀貨は削り取られ、中には重量で半減するようなものが通常の硬貨として流通している状態であった。この醜態を解決するため英国議会が諮問したのがジョン・ロックと財務長官ウィリアム・ラウンズであり、ラウンズは実務家として銀貨の表示が国際的な実勢の金銀交換レートと一致していない点を重視し、銀貨の額面あたりの銀含有量の引き下げを提案した。一方でロックはこれに対して社会に存在する膨大な債権債務契約(とりわけ公債所有者に対する)の真正を重視し、銀貨の金属含有量の引き下げは債権者に多大な損失を与えることを述べ、エリザベス女王時代からの伝統ある貨幣の重さと銀の含有量を保持し貨幣の信用を守ることを主張した。これはポンドの標準を不変に守るべきだとする古来の慣習や理念に即したものではあるが、通貨問題にのみ焦点を当てれば、ロックの提案は、鋳造所に持ち込まれた削盗硬貨の表示する数値に見合う硬貨を新たに鋳造するために、削り取られた分量の銀地金を課税により政府が用意する必要があり、さらにその新たに鋳造された銀貨は重量単位での海外レートを反映しないものであるため投機対象となることは自明であった。ロックの主張の背景にはイギリスは金銀を産出しないため海外との交易で入手する必要があり、通貨ポンドの威信を保持することが交易上重要であるとの見解を持っていたためと指摘される(差額貿易主義)。一方でラウンズの提案はこの逆であり、銀地金の価値と国際相場との乖離が修正されることにより銀貨の価値が回復され、また削盗する理由がなくなり、少額決済用途としての銀貨不足が解消される。ラウンズの提案は常識的であり、実際、欧州各国の通貨制度史は金銀交換レートをその時代ごとに反映すべく改鋳される歴史であった。しかし史実として、この問題は議会で検討されロックによる案が1696年1月17日に銀貨改鋳法として下院を通過し21日に国王の裁可を得て成立した。そして予想された通り盗削された銀貨は鋳造所に持ち込まれても引換券のみ給付され容易に新銀貨は給付されず、イギリスから銀貨が払底する大混乱をもたらした。また徐々に給付された新銀貨はオランダなど海外に持ち出されて融解された。ロックの新銀貨に対する提案と議会の同意については「ロック=ラウンズ論争」として様々な研究がなされているが、明らかなのはロックはこの推移を当初から予想済みであった形跡があること、それでも貿易の促進により金銀複本位は維持されると考えていたこと(この点についてロックの思惑は完全に失敗した)、国内取引では信用通貨(計算通貨)として成立していた削盗銀貨が国際取引では重量通貨(金属通貨、商品通貨)としてのみ流通しており、この乖離は金銀複本位を続けている限り解消しないことを理解していた点である。いずれにせよこの大改鋳は1696年に造幣局の監事に就任したアイザック・ニュートンにより精力的に行われ、必要とされた膨大な資金は同盟国オランダからの融資により支弁し、その返済のために有名な窓税やガラス税が創設された。そして想定されたように海外から金が持ち込まれ銀貨と交換され、新銀貨はみるみる海外に輸送され国内から銀貨は消えた。1717年には造幣局長に就任していたニュートンによる提案でイングランド銀行券は金1オンス=3ポンド17シリング10.5ペンスでの兌換を決定した。また1ギニー金貨を21シリング以上の価値で支払ったり受け取ったりしてはならぬとの布告が出された。これは当時の金銀重量相場でいえば「1 : 15.21」の水準であり、オランダ・アントワープの相場に比べても銀が割安に設定されており、中国では1:10~11程度であったことを考慮してもイギリス国内に金が持ち込まれて銀貨と交換され、銀が海外に流出することは自明であった。イギリス王室造幣局の副局長を務めたジョン・グレイグ卿の1953年の書籍では、この時代の前後、すなわち1688年の時期、銀貨は少なくとも1360万ポンド以上、金貨は525万ポンドがイギリス国内で流通していたものが、1701年には銀貨675万ポンド、金貨850万ポンドとなり、1717年時点では銀貨はイングランド・スコットランドを合わせても200万ポンドを超えておらず、しかもその銀貨の多くは摩損いちじるしいものだったと述べる。これらは1696年の法令にも関わらず退蔵されていた旧銀貨(の複数の種類)か、あるいはすでに削盗された新銀貨であったと思われる。大改鋳と新銀貨の発行政策は1704年に死亡していたジョン・ロックの思惑に反し、イギリスでは事実上の金本位制が確立されたと一般には見なされている。楊枝嗣朗「1696年の銀貨大改鋳と金本位制の確立」(佐賀大学機関リポジトリ、1996年)「1696年の銀貨大改鋳と抽象的計算貨幣としてのポンド」(佐賀大学機関リポジトリ、1997年)
- ↑ 下関条約で合意した賠償金は銀2億テールであるが、実際には相当額の英ポンドで受領し、その大半は在外正貨としてロンドンにおかれた。
- ↑ 世界的観点と研究蓄積の網羅に努めて書かれた研究の手引きであり、おびただしい文献が紹介されている。
- ↑ 「2.幣制改革に至るまでの中国の通貨・金融事情」1935年5月に合衆国が銀本位制を部分的に採用したことが、大不況で価格の下落していた銀を昂騰させ、中華民国をデフレに陥れた。民国からは銀が大量に流出し、幣制改革を経て、翌年5月の米華協定により合衆国政府が直接銀を買上げて民国がドル建ての売上げをナショナル・シティー銀行へ預けることになった。→詳細は「中華民国期の通貨の歴史 § 国民党による「法幣」発行」、および「銀本位制 § 中国」を参照
出典
[編集]- ↑ それ以外の貨幣とりわけ銀貨の強制通用力を否定する事を含む。例えばイギリスの場合、銀貨の流通は認めるが自由鋳造は禁止され、製造された銀貨の表示価値は重量価値よりはるかに大きなものであった。一方で、受け取り側は一定以上の銀貨での支払いを拒否する事が法律上認められた。表示価格と重量価値との差はシニョリッジとして造幣局を通じて国庫の税収となった。
- ↑ この4条件はイギリス1816年貨幣法により成立したと解するのが一般的な理解である。なお「金本位制の4条件」という表現自体は経済学の分野でかならずしも一般的な用語ではない。ここでは浜田康行「イギリス再建金本位制の歴史的意義」(研究年報「経済学」1976.3)P.118 脚注4から利用した。
- ↑ 浜田康行「イギリス再建金本位制の歴史的意義」(研究年報「経済学」1976.3)P.118 脚注4
- ↑ ここから、本位制度の分類について解説する目的で、吉田賢一(2000)より引用要約。吉田賢一「国際経済と国際金融(中)」(工学院大学研究論叢、2000年)P.P.15-16
- ↑ 吉野俊彦「通貨の歴史」(1987)を元に吉田賢一がまとめたもの。吉田賢一「国際経済と国際金融(中)」(工学院大学研究論叢、2000年)
- ↑ 銀貨は補助貨幣として依然流通したが、表示価格と重量価値は大幅に変更され、一方で銀貨での受け取り側は、一定以上の銀貨での受け取りを拒否できるものとした。
- ↑ gold coin standard または full gold standard
- ↑ limping standard を和訳したもの。1903年のCharles A. Conantの論文タイトルに見える。英語版en:Limping bimetallismも参照。
- ↑ gold bullion standard の和訳
- ↑ gold exchange standard の和訳
- ↑ 吉野(2000)からの引用ここまで
- ↑ gold kernel standardの和訳。この用語は主にドイツ系の研究に出るという。葛西孝平「管理貨幣論のアプローチについて」(京都大学経済論叢、1966.11)によれば、金核本位制は1920年代から30年代の約10年間採用された制度であるという。第一次大戦の戦勝国であり金の偏在が進んでいたアメリカが金貨本位制度を、イギリスフランスは金地金本位制度を、その他の諸国ではスゥエーデンその他を除いて、中心国の金為替とリンクした金為替本位制度を採用した。
- ↑ 岩田規久男編 『昭和恐慌の研究』 東洋経済新報社、 2004年、38-39頁。
- 1 2 Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 5–40. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ↑ Esteves, Rui Pedro; Nogues-Marco, Pilar (2021), Fukao, Kyoji; Broadberry, Stephen, eds., “Monetary Systems and the Global Balance of Payments Adjustment in the Pre-Gold Standard Period, 1700–1870”, The Cambridge Economic History of the Modern World: Volume 1: 1700 to 1870 (Cambridge University Press) 1: pp. 438–467, ISBN 978-1-107-15945-7
- ↑ 東シベリアに優良な金鉱があり、1820年代で世界の24%、1840年代では世界の43%を産出していた。もっとも1850年代となるとアメリカとオーストラリアでゴールドラッシュが始まり、この両国だけで世界の産金量の80%を占め、ロシアも産出量が増加傾向にあったものの、全体の約13%となった。田口信夫「国際金本位制成立の歴史的背景」(長崎大学経営と経済、1973.3)P.P.4-5
- ↑ 柏木肇 訳編 『技術の歴史』 第12巻 筑摩書房 1981年 p.345.
- 1 2 Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. p. 5. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ↑ Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 7, 79. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ↑ Eichengreen, Barry; Esteves, Rui Pedro (2021), Fukao, Kyoji; Broadberry, Stephen, eds., “International Finance”, The Cambridge Economic History of the Modern World: Volume 2: 1870 to the Present (Cambridge University Press) 2: pp. 501–525, ISBN 978-1-107-15948-8
- ↑ Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 86–127. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ↑ “Gold standard Facts, information, pictures Encyclopedia.com articles about Gold standard”. Encyclopedia.com. 2015年12月5日閲覧。
- ↑ William O. Scroggs (11 October 2011). What Is Left of the Gold Standard? 2015年1月28日閲覧。.
- ↑ 大蔵省編纂 『明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金』 大蔵省、1939年
- ↑ リヨン預金銀行。コトバンク「クレディリヨネ」
- ↑ World Gold Councilによる統計
- ↑ これは第一次大戦にともなう兌換性の停止の後の金利水準である。大日本帝国が日露戦争のために欧米で公債を発行した際には、金本位制の条件の元で関税収入を担保としても起債には割引発行による実質金利は年利7%が必要であった。
- ↑ この項目、次の2論文から解説する目的で要約引用している。①松岡和人「自由銀行制度の再評価について」(愛知教育大学研究報告、2010.3)、②塩野・道垣内・福田ほか「中央銀行と通貨発行を巡る法制度についての研究会、報告書」(中央銀行と通貨発行を巡る法制度についての研究会、日本銀行金融研究所、2004.8)
- ↑ イングランド銀行を除き、6名以上の構成員からなる組織が銀行業を営むことは禁止されている。
- ↑ スコットランドの自由銀行は3社が知られておりスコットランド銀行、スコットランド・ロイヤル銀行、ブリティッシュ・リネン・カンパニーであり、資本金の最も少ないリネン・カンパニーの銀行券発行高が最も多かった。
- ↑ なおスコットランドの自由銀行制は1844年のピール条例により発券業務の新規参入は禁止されたが、1845年スコットランド銀行法(Scottish Bank Act of 1845)により既存の発券銀行については、過去の一定期間中の平均流通高を限度として営業の継続が認められた。また100%の正貨準備を積めば限度額を超える発券が可能とされた。現在でもスコットランドでは3つの民間銀行が発券業務を行っている(スコットランド銀行、ロイヤルバンク・オブ・スコットランド、en:Clydesdale Bankクライズデール銀行)。このほか北アイルランドにも3社存在している(→スターリング・ポンド紙幣)。
- ↑ 帝国金貨(Reichsgoldmuunzen)の鋳造に関する法律
- ↑ 貨幣法(Muuzgesets)
- ↑ 銀行法(Bankgesetz)
- ↑ しかしライヒスバンクは他の民間発券銀行と同等の発券権限を持つ私法人であった
- ↑ 帝国紙幣と銀行券に関する法律(Gesetz betreffend die Reichskassenscheine und die Banknoten)
- ↑ 浜田康行「金融論の研究(7)」(北海道大学経済学研究、1990.9)P.56
- ↑ 浜田康行「金融論の研究(7)」(北海道大学経済学研究、1990.9)P.56
- ↑ Statute of Stepney(Statutum de falsa moneta)
- ↑ Richard Kelleher, Fitzwilliam Museum, Cambridge "Coin Collecting Magazine" P.48。特に偽造貨幣の輸入は「生命と財産の没収」であった。
- ↑ Act for the Encouragement of Trade 1663
- ↑ World Gold Coouncil "The rise of the Gold Standard- Records from 1660-1819"
- ↑ R.G.Hawtrey, The Gold Standard in Theory and Practice, 4th edition, 1939,P.90 ref., S.E.Harris, Monetary Problems of the British Empire, 1931, P.308
- ↑ An Economist's Protest, P.P.114-116, ref., Harris, op. cit., P.308, Cunliffe Ctee., §8-9.
- ↑ 直接の引用は中島・楊枝(訳)「E.コピーターズ著『イングランド銀行券の歴史 1694-1954年』」(神戸学院大学経済学論集、1986-88)
- ↑ イギリスには1928年通貨および銀行券法(Currency and Bank Notes Act 1928)、アメリカは大統領令6102号(1934年)、銀買上法(1934年)、日本は金管理法(1934年)、産金法(1937年)がある。
- ↑ Ben Bernanke, et al. 'The Gold Standard, Deflation, and Financial Crisis in the Great Depression: An International Comparison'1991
- ↑ 高橋洋一『日本経済の真相』
- ↑ 大蔵省編纂 『昭和財政史(第9巻)通貨・物価』 東洋経済新報社、1956年
- ↑ ニューディール政策と金没収
- 1 2 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年
- ↑ 造幣局125年史編集委員会編 『造幣局125年史』 造幣局、1997年